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ツアラトゥストラはかく語りき/R・シュトラウス

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グスターボ・ドゥダメル指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏

『ツアラトゥストラはかく語りき』この曲のイメージはスタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』です。宇宙の広大さを表すシーンで流れていたように記憶しています。でもその部分って序奏の部分だけだったんですね。あの宇宙的イメージは最初だけだったんだということを改めて知りました。ニーチェは読んだことがありません。

ライナーにも“一種の幻想曲である”と書かれている通り幻想的なイメージを想起させます。それがキューブリック監督が自作にこの曲を使わしめたということなのかも知れません。
「幻想的」なんて一言で済ませているけれど、そのイメージは具体的な何か、物のイメージを描ききれないということかも知れません。ベートーベンの『田園』なら田園風景を思い描きながら聴くような、そういう具体的なイメージを思い浮かべるような具体的なものではない。でもだからといってつまらないわけじゃない。曲を聴いてそのイメージに酔えばいいし、それは「幻想的」という言葉でしか表せられない。

ポップミュージックというものの内、歌ものというのは歌詞があるわけで具体的なイメージが既に提供されてるんですよね。恋の歌が氾濫している歌謡界ですが、恋の歌を聴いて、この曲は孤独をイメージした音楽だという像をを思い描く人はいないわけで、作詞者によってイメージが固定されている。
音楽、歌ものを聴いて歌詞が良いという評価があって、それは間違ってはいないと思うんだけれど、ちょっと捻くれた物言いをするなら、それなら曲をBGMにして朗読しても同じじゃないのって思うんですよね。音楽は詩のBGMじゃないはずだから。歌唱の魅力というものは大きいのでそんな言い方は理不尽なのは分かってんですけど。
インストの曲が聴けないとか、洋楽は歌詞が分からないからつまらないという物言いは、歌詞というイメージの案内がないと音楽を楽しめない貧しさのような気がするんです。

音楽は聴覚による快楽なので具体的イメージが提示されていないからといって迷う必要もないし、何か決まったイメージを描かないと間違っているというものでもないんですよね。正解があるわけじゃないから。ただ音を楽しめばいいから。音に酔えばいいから。
作者にすればその感想はちょっと違うかも、という場合はあるだろうけど、一度音が放たれたら後は聴衆がどう捉えるかは自由だと思うんです。

なんだか話が脱線しました。

今回聴いたのは
■R・シュトラウス
交響詩 ツアラトゥストラはかく語り op.30
交響詩 ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら op.28
交響詩 ドン・ファン op.20